[アクセスコントロール]消えていく言葉について

[アクセスコントロール]消えていく言葉について - TODO

公開された文章の継続公開にかかる問題

  • 書き手の権利
    • 見せたいときに見せて、消したくなったら消せる
  • 読み手の権利
    • 個人的に保存する
    • ウェブアーカイブ・Googleキャッシュ


見えない無数の栞と消えてしまった本

読んだものから有形無形の影響を受けるなかで、影響を受けたことを覚えておきたいと思ったときに、栞がはさまれます。

その栞が目に見える時もあれば、見えないこともある。自分ではさんだことすら忘れていたのに、ふと思い出すこともあるので、栞とは、遡ってはさまれることもあるものなのだと分かります。

世界という絶えず書かれ、読まれ、読み返すたびに書き直される重層的な本の中で、一度目に見える形で発せられた言葉は、その段階で個人の占有するものではなくなり、読んだ人の頭の中で、一部、時によっては全部書きかえられて保存されます。この無数の写本と、原典の差こそが読んだ人の読んだ時点での思考の本質であり、それを見いだすためには、原典がそのままの形で残っている必要があるのです。

そういう意味ではアーカイブやキャッシュは個人の財をかすめ取るものではなく、皆の財を保存するものであることが分かります。頭の中の、自分なりに書き換えた本だけで結構、という人もいるでしょうが、できれば伝播の過程はそのまま保存されていてほしいものです。

保存のコスト(結びつけられたくない個人情報の望まぬ伝播を含む)を下げるためにも、何十年、何百年経っても消さないですむ形での情報発信が望まれます。発信時のリスク管理は、皆の共有財産を長く保つためにも必要なものなのです。

あー、でもこれはメモ利用を否定している…。

(落書きは落書きとして保存すればいいんだからいいのか)

リセット願望とペルソナ

わりとリセット願望というか、サイトは閉鎖も含めてひとつのコンテンツです、というような文化に親しんできたせいで、ログを消すな、いや作者の勝手だ、というような話には、作者のかってでしょと長いこと思っていました。

その事情が変わったのは、ひとつにはプロバイダに付属する形であったサイトスペースが無料レンタルブログに移行しつつあることが実はかなり影響しているのではないかと思います。

閉める気がなくてもプロバイダを解約すれば自然と消えてしまう、契約を更新しなければ問答無用でサーバから消去される、そういう場所に作られたサイトが減り、更新がなくても結構長いことそのまま置いておいてくれる無料レンタルブログが増えたことで、平行して作ったり、飽きたら放置して他へうつる、ということがずっと容易になりました。

それに伴ってペルソナリセットのためのコストもどんどん低下しています。これを苦々しく見る人もいるのでしょうが、かえってリセットのためのログ消しが減る効果があったのではないかとも思います。

公的な場に露出する人格なんていくつ持ったっていい、それを本人がどう運用するかが問題だと思っているので、なにかあってサイトを閉じたくなったときは、そこにあったものを消さないでそのまま放置して、べつの場所でまた新しく始める人が増えるといいなぁと思います。

本家を放置して別宅を造る人が増えるのには、そういう背景もあるのではないかと想像してみたり。ちょっと違うことをしたくなったときの選択肢として、そのままにしておいて、他を作る、ということができるようになったのですから。

ただし、そのためには放置しても大丈夫な程度の個人情報しか露出していないことが肝要なのですが。



「話し言葉」型サイト

例えば毎日定期的に通って読むというスタイルを取っていると、ある程度の背景とか前後関係を共有しているために説明を省くことができるようになります。

しかし、10年後20年後100年後、遡って読む人には、単にその文章を読むこと以前に、この背景や前後関係が壁となります。

参照リンクのついていないメモ、当時起こった大きな事件名をあげることなく、それに触発された言葉を連ねた文章…今ここで同じ時間を共有し、だいたい同じニュースに触れている者同士にはない困難がそこに生まれることが想像できます。(源氏物語や枕草子が読みにくいのはそれが古語で書かれていると同時に「当時の常識」を前提に説明を省いてあるからです)

あえて発想源へのリンクや、ピンポイントのパーマリンクを廃した言葉は、そうすることで文脈を共有しないものを閉め出し、同時代を生きながら、平行して読まなければ本当の意味は伝わりにくい「体験するサイト」として設定されているのでしょう。

それは一つのアクセスコントロールの形であり、伝えたい人にだけ伝えるためのひとつの手段なのです。中途半端に分割されて保存されて、ねじ曲がって伝わるくらいなら、いっそしゃべり言葉のように、そのときだけ伝わる言葉としてコントロールしたい、そういう手法としてそれはこれからも存在しつづけるのでしょう。

私は書籍型思考の人間なので、つい、もったいないと思ってしまうのですが、音楽的といってもいいそのスタイルは、ある種のサイトに似つかわしかったのだと思います。

何の話かというとニーツオルグの話です。


「天に積む」

作り出すことによって作者に物質的見返りをもたらすものを著作物と呼ぶならば、私はそういうことにはあまり興味がありません。それは食えるか食えないかという純粋に物理的なところへ戻ってくる以上、「一定額以下でも一定額以上でもあまり意味のない」ものであり、私の作り出すものの見返りが生きるための一定額をはるかに下回ることは目に見えているからです。

見返りを求めないとすれば作りだしたものを個人と結びつける必要はなく、個人と結びつける必要がないとすればそれはひたすら無銘のままでそのものの価値の推進力によって伝播していくことになるわけで、私がいま求めているのはそういう行為であり、環境であるのだと思います。

それはあたかも「天に富を積む」ようなものであり、見返りを求めない以上、それがどう受容されたかすらもあまり気にする必要のないものです。

悪評も好評も、自分の見えないところ(もしかしたら死後かもしれない)にある、そういうものを作り続けることの幸福感というのは幻想なのだろうなぁと思いつつも、幻想であっても幸福感が手にはいるならこれより安いものはないではないかと、今日もばらばらに切り刻まれてテーブルの上に載せられるバイキング料理のようなブックマークのエントリを眺めています。

http://list.g.hatena.ne.jp/task/2/53#1147444608につづく?


「このサイトはつまらないので一度消去しました。」? 2006-05-12 23:26:24

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.jarchive.org/blog/entry/200605/11retry.html

話し言葉型の人がログを消したがるのは、サイトを体験させるという目的からするとログはすでに「使い終わった」ものなので、それはわかるというか、自分の中で納得できる回路がある。

けれど、明らかにアーカイブ型の人が昔から作っては消し作っては消ししているのが不思議で仕方がない。記録すること、歴史を記述することに価値を見いだしている人は今ここにいる読者は氷山の一角で、十年後、二十年後の誰かが読むかも知れないということをわかりすぎるほどわかっているはずで、だとすればそれを消すのは矛盾しているように思える。

あと考えられるのは、ログが書き手と結びつくことで別の意味を持ってしまうことのおそれなのかとも思うけれど、そうじゃなくて戦略としての飢餓感の演出なのかも知れない。消されたら惜しい、と思われるきっかけを多く用意することで真剣に読ませるという。…けどそれはあんまりにも皮相な解釈だとも思う。

[Good Job!]