[スタンス・ドット][アクセスコントロール]Web2.0と「作者の死」

[スタンス・ドット][アクセスコントロール]Web2.0と「作者の死」 - TODO

Web2.0によって細断される「私」の恍惚と不安

はてなSNSの扱いにかかる論争

眺めているうちに決着してしまった。

http://i.hatena.ne.jp/idea/8786

まさに議論百出、侃々諤々。でも、選べるようになったから解決かっていうと、ぜんぜんそうじゃなくて、Web2.0世界への移行(というかあえてWeb2.0による浸食と呼びたい)の過程で何度となく繰り返されるであろうコンフリクトの一つにすぎないと思った。

テクスト論*1でいう「作者の死」を援用すると、生きて現に書きつづけている私たちが発信と同時に「死んだことにされる」抵抗感が根元にあるのだろう。

「人のデータを使ってあれこれするサービス」はみんなこの問題から逃れられない。はてなだとアンテナしかりRSSしかりブクマしかりSNSしかり。

メリット

  • 個別関係に伴う煩瑣な手続きを踏まずに発信できる
    • 「相互リンク」「全人格的なおつきあい」の呪縛から逃れる
      • 本質的にこういう風土を有しているはてなという組織が「おつきあい要素」を主成分とするSNS風(あくまであれは「風」だ)のものに手を出したという抵抗感はありそう
  • 強固な一枚岩ではない「私」をバラバラなままで発信・受容してもらえる
    • 苛烈な一貫性の要求から逃れることでアウトプットの敷居を下げる
    • 細断されることでより広く、遠くへ届くようになる(カタパルト説←無体さんのはてなダイアリーカタパルト説より)

デメリット

「私」の内部を流れる(複数の)文脈の中の一部が、他者の文脈に置かれたとき、まったく違う意味をもつということ(メリットでもある)

  • 無数の他者によって、無数に解釈されることに不安を抱く人(→本来の意味でのSNSへ)
  • 特定の他者によって、特定の解釈をされることへの不快(最終的には相手との個別関係の問題に帰結する。つまり対はてな期待値)
    • いずれも「誤読・誤解」を否定的にとらえる立場からの問題意識(一方で内田樹みたいに引用・剽窃されてなんぼ、誤読されて、いじられてなんぼという価値観もある)

「私」の情報がほかの誰かによって再構築されるときの衝突点

たとえ全世界に公開した情報であっても、その扱いの諸条件に対してさまざまな反応が起こるのは当然。

  • 相手が誰か(相互認識*2の不均衡)
  • どういう解釈か(その文脈が自分のそれとどう違うか・目的は何か)
  • 公開対象は誰か(だれが受容・利用するのか)
  • 名義が誰か(誰のものということになっているか)
    • 自分のものがあたかも人のもののように扱われている不快(剽窃・流用・目的外使用)
    • 人が作ったものなのにあたかも自分が意図してそうしていると解釈されかねない不快(文責・編集責任の所在)
      • 自分のものなのにコントロールできない不満(一方的な押しつけ)

自衛手段

  • 道具の特徴をふまえてアウトプットをコントロールする
    • パーマリンクをつけない(ニーツオルグみたいに)/集約されたくない話題はIDを変える
      • これはいくら気をつけても技術の進歩に伴って後付けされることがあるので、万全とはいえない
  • 相手との直接交渉(はてなアイデア等)
    • 当然いつも受け入れられるとは限らない
  • 拒むことは物理的に不可能であっても、この価値観を持ち続けたままここにいて、疑義を提示し続けることは出来るという主張。Web2.0の領域にあって1.0的価値観をもち続けること。

関連ブクマタグ

[RSSの憂鬱][Web2.0懐疑][ペルソナ][アクセスコントロール][地下水脈]

テクスト論関連文献(アマゾンで「テクスト」を検索するとこの辺が出てくる。)

  • テクスト論派(「作者は死んだ」)
    • バルト『物語の構造分析』/前田愛『文学テクスト入門』/石原千秋『テクストはまちがわない』
  • 超テクスト論派(…勝手に殺すな/まだ生きている)
    • 『テクストから遠く離れて』加藤典洋/『「作者」をめぐる冒険―テクスト論を超えて』 柴田勝二/フーコーとかは反テクスト派かな。

おまけ(個人史)

「人のデータを勝手にいじる」タイプのサービスへの私の反応の変遷

  • はてなアンテナ…えーこんなことしていいの?著作権法的にまずいのでは?更新内容が読めてしまうのがいやな人もいるよね。/数日後…でも便利だなー。イラストサイトのアンテナを作ってみよう!→水彩アンテナ(http://web.archive.org/web/20030906054744/http://a.hatena.ne.jp/watercolor/)を作る
    • 結果として言葉にして抵抗感を示す人もいたし、怒って閉鎖した人もいた(しかもそれが1人ではなかった)。文句を言わないまでも画像のみの更新にして、アンテナの捕捉を避ける人もかなりいた。/メールではずすように頼まれた時ははずしていた。/一方で便利に使ってくれる人もけっこういたので、文字が見えないシンプルモードにして長いことメンテナンスも続けたけれど、よく思われていないという心理的圧迫感はずっと続いた。
  • はてなRSS…のっぺらぼうで読んだ気がしない、RSSがないサイトは無視ですか/RSS出さないサイトを変換するところもあってげんなり。
    • 私は特にデザイン面ですごく抵抗があったので未だにあまり活用できていない
  • はてなブックマーク…便利だ、すばらしい!
    • 当時ダイアリーがプライベートで、素性が怪しい人っぽかったので、ホームグラウンドがほしくて一時は自分ポータル化も図った。道具自体には毛ほどの懸念も抱かなかった。コメントやタグでもめてても平気。ただ、イラストサイトの下層直リンクだけは避けるべきと思っている。
  • はてラボはてなSNS…これポータルじゃん…しかもいけてないなーまあ使わないし、どうでもいいか。
    • 「正式サービス」としての扱いだったらもっと言ったかも。
      • その後追加された中途半端なあしあと機能はかなりいただけない。どうせ現時点での公開情報だけで作るんだったら徹底すべきだった。

なにがひっかかるのか 2006-04-12 22:22:54

「RSSフィードへの全文掲載」のデフォルト値を「全文を掲載する」にするかどうか

http://q.hatena.ne.jp/1144667461

「作者を殺すのが前提」のサービスに違和感を感じる人たちに対して、論理的に反論しているふりをして、じつは結論ありきなところかなぁ。どうせ「感覚」っていって切って捨てるんでしょ、という。

デフォルトは要約にしておいて、「全文配信する」を選択した時だけ全文配信というのは「しらないうちに別のところに丸々コピーされています!何とかしてください」みたいなトラブルを回避する手段としては消極的ながらいいおとしどころだと思うけどなあ。

なによりRSS使う側からしたら、相手が明確な意思を持って全文配信してる人だとわかってたほうが気が楽じゃないだろうか。

task:2:56に続く

無銘 2006-05-12 23:36:48

http://list.g.hatena.ne.jp/task/2/60#p4の続き?

片隅に同じように風雨に洗い晒された四人の僧の彫像があった。作者は不明IGNOTUSと書いてある。その美しさはドナテロに勝るとも劣らない。その名が忘れ去られて、美しい作品のみが残った幸運な石工。君にはこのことのすばらしさが判るだろうか。その知られない作者は、この美しい作品の中に、自分の魂を刻み、自分の魂の辿った軌道を証して、それだけを残して、過去の黄昏の中に消え去った。今は誰もかれを知る人はない。かれの喜びも、悲しみも、愛も、憎しみも、すべてはかれらと共に永遠に去ってしまった。そしてかれの魂のもっともよきものが、この作品という万人が共有することのできる普遍的な形の中に刻みのこされて、後世を照らしている。人がこの作品をどう考えようと、かれはそれを誰に訴えることもできない。また誰もかれのために弁護することはできない。誰もかれを乱さない。かれもまた人を乱すために過去の中から出て来ない。自分の名を求めるとは、何という不幸なことだろう。日々の乱れはそこから出て来る。「作品」ということの本当の意味は、作者の名を消し去りうることに在るのではないだろうか。

『バビロンの流れのほとりにて』森有正 1968 筑摩書房 p37

このくだり、Webの匿名性と細断性と響きあって一瞬納得しかけたんだけれども、よく考えたら美しいと思っているのは書き手なのであって、ここに作者の伝があろうがなかろうがそれを処理する受容者の脳内ではいくらでもねじ曲げることができる。

書くことも描くことも結局は世界をフィルターに通したものを焼き付ける行為で、だとすれば作り手が最初から無銘を意図するということは自分というフィルターをごくごく薄い単層のものに見せたいという売名とは違う種類の欲望でしかないのかもしれないのでややこしい。

そのややこしさから逃れるために解釈上「作者は殺される」のだし、「殺される」のがいやならいっさいのアウトプットが不可能になる。だから無銘をひとつの解法と見なして喜んでいるのはあくまで受容者であって、作り手にはそもそも選択の余地など無いのだった。そういう状況下であえて表現を続けるためのただの動機付けと思えばまあ作り手にとっても解法といえないこともないのかなぁ…。

ちなみにこのくだりは前後とあわせ読むと書き手が全然「作者の名を消し去りうる」方向で文章を書いていないので狐につままれたような気分になる。

ココヴォコ図書館 - 自分が客体化される瞬間 2006-06-10 10:32:31

http://anotherorphan.com/2006/06/post_297.html

ブックマークと言う媒体は、文章をいわば、強制的に作者から切り離すシステムとして働く機能を有していた、とでも表現すればいいでしょうか。

ここでいう「客体化」こそ「作者の死」であり、 「天に積む」http://list.g.hatena.ne.jp/task/2/60#p4

でも書いた、自分が切り刻まれて見えないところで消費されていくことの、ほとんど幻想のような恍惚なんだと思った。

http://list.g.hatena.ne.jp/Hebi/20060610/p1の「ブログには書けないこと」をどうにかしてアウトプットしたい感覚にもつながる気がする。個人にひもづけられない形で人に受容されることの希望は、一方でhttp://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20060505#p1のような、消費者としての自分が、労働者としての自分の首を絞めるような絶望につながる気もするし、その絶望から逃れるための防衛機構であるような感覚もある。

上手くまとまらない。

*1:テクスト論のネット・Web2.0親和性については内田樹『寝ながら学べる構造主義』ISBN:4166602519のロラン・バルトの項を参照のこと

*2:自分にとっての相手と、相手にとっての自分

[Good Job!]